内省エッセイ:夢と幸福
金曜飲みに行ったお仕事仲間から「なんか夢とかあるんすか?いま幸せっすか?」と聞かれました。
本日の内省:夢を持つことはその人を幸福にするだろうか。
勝手な理想をいうと、本当は日曜を「ふんわりお便りコーナー」にしたいです。なので、人助けだと思って、ぜひお便りをお送りください。お気軽求む。
今年も夏の甲子園が始まった。普段野球に興味のない人まで吸い寄せられていく。
あの吸引力の正体はどこにあるのだろう。競技としての面白さだけでは説明がつかない。技術だけならプロや社会人、大学野球が上に決まっている。それでもNHKは高校野球の放送枠を手放さず、人は熱闘甲子園をみて涙する。
まだ何者でもない人間が、何かになろうとする。その姿は最高の栄養ドリンクである。
自分のこととなると、夢は途端に扱いにくくなる。夢を持てと学校で言われ、就活で語らされ、やっと解放されたと思ったら上司に面談で問い詰められる。夢を追って破れた人の話は毎日どこかから流れてくる(『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』も熱闘甲子園並みの人気コンテンツだ)。
夢を持てという圧力と、夢を持つことの危険性が交互に降り注ぐ社会。私たちは日々翻弄されている。
人はなぜ、他人の夢を見るのが好きなのか。
そして夢を持つことは、持った本人を幸福にするのか。
私の夢はいつも現実のスパイスがかかったものだった。小学校の卒業文集に、私は「広島カープの二軍選手になりたい」と書いた。二軍である。
夢くらい盛大に書けばいいのだけれど、12歳時点で既に自身の運動能力を自覚していたのだろう。あまりに非現実的なことは賭けないとブレーキを踏んだのだとおもう(二軍選手でもとんでもない能力を持っていることを知るのは高校生になってからだ)。いま振り返ると、不思議な夢の持ち方である。
自己査定の癖はずっと続いている。
大きな考えを一度書き出し、引いて眺め、静かに赤ペン訂正を入れる。
逆に小さくまとまった思考や否定的な思いも、赤ペン先生の修正対象だ。とてもお世話になっている。
夢を見る自分と、それを馴らす自分が同居する。スタートアップ経営者や社会改革家としては欠陥品だろうが、この体質の人間は案外多いのではないか。
卒業文集にプロスポーツ選手と書いた同級生の何人が、本気でなれると思っていたのだろうか。「なんとしても東大野球部に入って六大学でプレーしたい」といっていた高校同期、三浪したところまでは風の噂で聞いたのだけれど、いま、彼は何をしているのだろうか。
中学にあがると夢はもう一段トーンダウンする。「スポーツに関わる仕事がしたいな」。これくらいである。選手ですらなくなった。二軍選手から関係者へ大きく撤退。監査がよく仕事をしている。大学院まで進み、いよいよ就活だというとき、スポーツ関連企業は一社も受けなかった。BCGにいたとき、DeNA球団やパリーグTVからお誘いを頂いたりもしたけれど、積極的に検討したことはない。夢は無駄になったのだろうか。
いま私はテニスウェア・ギアを売っており、週末はコートに立ち、ジュニアのプレーを観ては感嘆の声を上げている。『スポーツに関わる仕事』を職種・所属と読めば叶っていないけれど、ひとりの大人の時間の使い方と読めば、思わぬ形だけど夢をかなえたとも言えるのかもしれない。夢はいつも、事前に思ったのとは違った形で実現する。
『夢なし先生の進路指導』という漫画がある。既刊8巻。引きのあるタイトルで内容ももちろん面白い。アイドルや将棋棋士など、典型的な夢を描いて高校を卒業していく生徒に、冷静な視点を伝える教員が主人公だ。彼らは当然のように、社会に出て失敗する。失敗したときに、その教員がふらっと生活の中に立ち現れてくるところからが本番である。
夢を持つことだけが善ではない、というこの作品が人気を得ているところに時代の気分が出ている。主人公教員が頻繁に語る「その夢はあなたを殺しかねない」この言葉に、共感する人が多くいるのだろう。
夢のせいで不幸になる人は確実にいる。その多くが夢を”状態”として記述する。
この職業に就けたら。この人と結婚できたら。彼女が出来たら。子どもができたら。タワマンに住めたら。資産が○億円になれたら。
人生のある一場面、あるいは一瞬を切り取って、そこに幸福というラベルを貼り、それを夢として目標地点に設定する。スクリーンショットとしての夢、である。
残念ながら、幸福はスクリーンショットからもたらされるものではない。この一週間で幸福を感じた場面を思い出してほしい。たぶん、何かしら、一続きの体験がまとめて思い出されたことだろう。幸福は静止画ではなく動画作品。快楽は脳内物質由来だけれど、幸福は生活の話である。幸福にはアナログの時間経過が必要だ。
夢を一枚の静止画として保存してしまうと、その画像を手に入れた瞬間から先の毎日が、想定と違うことに苦しみ始める。夢が幸福を約束するどころか、わたしたちの生活を縛ってしまう。夢を実現出来たのになぜこんな生活なのか、こんな感情なのか。夢が幸福を破壊する一例である。
10年ほど前に読んだ『クランボルツに学ぶ夢のあきらめ方』という本がある。あきらめ方である。著者は、夢っちゅーのはそもそも叶わないものだ、という前提から語りを始める。ポジティブな意味で、である。夢に向かって進むと、当然その道の中で、自分自身が徐々に変化していく。技術がつき、視野が広がり、出会う人が変わることだろう。変わった自分は、かつての夢をもう欲しがらないかもしれないし、もっと高い場所や別の方角を見始めるかもしれない。夢は勝手に進化する。だからこそ、叶わないまま夢を捨てていくのが自然なのだというのだ。
夢を諦めることは、すなわち敗北の宣言とは限らない。ここまで歩いてきた自分が別のものを見始めたという、変化の追認にもなりえるのだ。大事なのは、変わった自分が次にどんな夢を持つかを、ちゃんと見つめてやることだ。時間の経過を見つめること。夢を動的に、ダイナミックな存在として捉え直すことである。
クランボルツは『計画的偶発性』というキーワードで知られる研究者だ。予期せぬ偶然の出来事への柔軟な対応が、結果的に自身のキャリアを築くという理論である。
この枠組みで夢を見てみよう。夢は目的地ではなく、偶発性の発生装置と考えてみたらどうだろう。
崖の向こうに向かって歩き出すから、予定になかった人と出会い、予定になかった仕事が来て、予定になかった自分になる。夢はガソリンである。
真正面から夢を叫ぶ場所がある。「夢を語れ」という名のラーメン屋だ。豚が山盛りになった二郎系の店で、店名がそのまま思想である。あれ、フランチャイズなんですね。九州の本社近くでは、夢をテーマにしたフェスまでやっている。でかい夢を持とうぜ、と正面から言い切る場が、この冷笑社会に支持されているのを見ると、みんな本当はでっけー何かを語りたいのだろうとも思う。なによりここは二郎インスパイアなのだ。不健康なくらいがちょうどいいのだ。
最後、夢の大きさの話をしたい。少し前に、有村崚さんのニュースレターで「一人力」という言葉に出会った。フジロックで反戦を叫んだアーティストに、賛否が沸いた件を受けて書かれた文章だとおもう。アーティストが政治を語るなという人がいて、せっかく影響力があるのだからうまく使えという人がいた。どちらの陣営も、アーティストは一人分以上の力を持っているという前提を共有している。静かにその前提と戦う文章だ。一人の力は一人分。アーティストだろうと誰だろうと変わらない。そしてその文章を読んでいるあなたも、同じ一人分を持っている。読み終えて、じっと手をみる時間があった。私の力も一人力である。
努力や功績は正しくリスペクトされるべきではあるが、尊厳においては一人は一人分である。どこぞの天才と、あなたのパーソナリティが等価であると信じることから、悪しき構造上の問題の解体を始めることができる。 link
以来、一人分の夢について考えている。
世界を変えるとか、業界を塗り替えるとか、そういうスケールの話ではない。自分の手足と頭と、持ち時間で動かせる範囲。そこから描ける夢とは何だろう。
社会を、世界を変えるといった借り物の夢が、自分の身体に合うことはあるだろうか。たぶんないだろう。同時に、一人分で動かせる範囲が、思っていたより広いことにも気づく。手が届く人の数、変えられる習慣、作れるもの。その範囲を土台にして、それでも今の自分からは経路の見えない方向へ、手を伸ばしてみる。それが一人分の夢とよべるものだろう。等身大の夢、という手垢のついた言葉とは似て非なるものだ。
38歳の私にはいま、おぼろげな、一人分の夢がある。ここ2年ほどで、じわじわと輪郭だけ立ち上がってきている。中学生の頃に書かされた夢とは根本的に異なる何かだ。あれは提出物、今回は滲出物である。そして私は現在、ずいぶんと幸福である。
夢を持つことはその人を幸福にするだろうか。イエス。ただし、叶うから幸福なのではない。幸福は山頂に置かれているものではない。頂上にあるのは次の山の景色だけで、幸福はがあるとすれば、坂道の途中である。
ある目標を達成することが人生を変えるなどと考えることほど、大きな錯覚はありません。人生を変えるのは、その過程であなたがどのような人間になるかということです。山の頂上は狭いものです。人生のすべては、その斜面にあります。
—The Way of Excellence (The Way of Excellence: A Guide to True Greatness and Deep Satisfaction in a Chaotic World)
あなたの卒業文集には、何と書いてあっただろうか。そしてその夢は、どんな残り方をしているだろうか。あなたの日々を動かすものは何だろうか。それはどんな形の夢だろうか。
お便りをお待ちしています。



