読んでいない本について堂々と語る方法(2007年)
大学院の時に読んで、知識とは何かに関する考え方をぐわんぐわん揺さぶられました。
本を読んでいないことへの後ろめたさを出発点に、「そもそも本を読むとは何か」を問い直す。まったく読んでいない本、流し読みした本、人から内容を聞いただけの本、読んだが忘れてしまった本など、”未読”にも複数の段階がある。それぞれの状態で本について語る方法を、文学作品の事例を交えながら論じていく。
著者の文学研究者・精神分析家のピエール・バイヤールは、個々の本を最初から最後まで精読することよりも、その本が他の本とどのような関係にあり、文化や思想のなかでどの位置を占めているかを理解する方が重要だと語る。本について語る行為は、内容を正確に再現することではなく、その本を手がかりに自分の考えや価値観を語る創造的な営みでもあると。題名は読書を怠けるための指南書のようだが、実際には、読書を含めた学習全体を知識の暗記から解放し、メディアとの付き合い方をぐっと広げる一冊。
原題は『Comment parler des livres que l’on n’a pas lus ?』、2007年に刊行。日本語版は大浦康介訳。筑摩書房から2008年に刊行され、2016年にちくま学芸文庫版が発売。
中高生の時、私は特段読書が好きというわけではなかった。大学に入って一人暮らしを始め、自分の時間が出来たことで、経済学部図書館に置いてある雑多な本を少しずつ読み始めた。読書のお作法がわかっていない私は、体系立てて読むことをせず、タイトルや表紙が気になった本をただ乱読するだけだった。小説からノンフィクション、学術書から詩集まで。どれも大変面白かった。
大学2年生になり、日本証券奨学財団から給付型奨学金をもらうようになり、少し生活に余裕が出来た。借りるだけでなく、月に数冊、本を買えるようになる。図書館に置いていない、新しい本に手を出せるようになって、読書のペースが上がる。刊行したての本は、テーマの切り方やタイトルの付け方がうまい。読書量はいっそう増えた。
大学3年生になり、周りから読書好きとして認知されることも増えた。すると、「のぞみが前に読んでいた〜〜って本、私も興味があるんだけど、どんな感じだった?」と聞かれることも増える。困惑した。面白かった、という感想は残っているのに、内容を全く覚えていないのである。確かこんなシーンがあった気がする、XXみたいなことが書かれていたような・・(しかし別の本だった気もする)のように、ごく断片と曖昧な示唆を伝えてお茶を濁す。
自らが本を出してみてわかったことでもあるのだけれど、知識・アイディアを書籍に仕上げるというのは大変なことだ。そこには大事なコンセプトがあり、論理がある。もし読者として、それを記憶に残せないとしたなら、読書はそもそもなんのためのものなんだろうか。
こんな私を救ってくれたのが本書『読んでいない本について堂々と語る方法』だ。まったく内容について知らない本について話すことができるのであれば、読書自体が無駄なのでは?と考えるのが自然な問い立てなのだけど、本書の主張は全く逆である。知識のネットワークこそ価値であり(=ネットワークが十分に広ければ個々の本を読まなくても何かを語ることができる)、それを広げる為にぜひ読書をすべきであるというまじめな読書論が語られている。
教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである。ここでは外部は内部より重要である。というより、本の内部とはその外部のことであり、ある本に関して重要なのはその隣にある本である。 (kindle no.255)
ネットワークを広げる対象は読書に限らない。仕事で聞いたことでも、街を歩いて感じたことでも、真剣に取り組んだスポーツ競技で体得したコツでも、あらゆる事が静かに自らの知識ネットワークを構成する要素となっていく。ネパールを旅した人なら河口慧海師の『チベット旅行記』について何かを語れるだろうし、大学生活をボートに捧げた人なら『ヒトラーのオリンピックに挑んだ若者たち』で描かれる漕ぎ手の苦労を迫力満点に描写できるだろう。とある知識に関して重要なのは、その隣にある知識である。
逆説的なことではあるのだけれど、読んでいない本について堂々と語るのがうまい人は、これまでにたくさんの本を読んできている人である。その方が、様々な本を隣において語ることが出来るからだ。スポットスポットで手を抜くためには、長期にわたる持続的な努力が必要である。これも、この本が教えてくれた社会の真理である。
社会において立場が確立していくと、自分が直接には経験していないことについて何かコメントをしなくてはいけないシーンが増えていく。そのとき、わかりません、と答えるのも一つの誠実な姿勢ではあるのだけれど、堂々と隣の知識をドヤ語りするのも大人の振る舞いである。特に会社組織で生きていこうと思うなら、後者は必須の能力である。私たちは日々手を抜くために、日々努力しなくてはいけない。



