こーべ通信:よっしゃ、大谷翔平から三振を取ろう
あるいは、名刺一枚に収まらない人間のお話し。
名刺というのは不思議な紙だ。人間を、たった一行の肩書きに圧縮してしまう。会社名と役職。あるいは職業名。その薄いカードを差し出すとき、私たちは暗黙の了解に従っている。人間とは、基本的に一つの仕事を持つ存在である、という了解だ。この3月、その向こう側にいる人たちを見た話をしたい。
WBCの話である。日本代表、お疲れさまでした。ベネズエラは強かったですね。さて、私が話すのはチェコ代表のこと。野球に興味のない人からしたらWBCはメディア枠を埋める邪悪な存在(地上波放送がないのはいいことだと思う)だったのあり、そもそも「チェコ?野球やっている人いるの?」となるだろう。いる。そして結構強い。予選敗退はしたけれど、素晴らしい戦いっぷりで、そして不思議なチームだった。メンバーのほとんどはアマチュアである。広報マンや工業デザイナー、消防士(5人もいる)で構成された実業団チームである。監督は本職が神経内科医。予選敗退の翌日には「チームは明日から京都観光。私?木曜日に診なきゃいけない患者がいるので、水曜日の最終便で帰ります」と話し、空港に向かった。プロフェッショナルである。
このチームにオンドジェイ・サトリアという投手がいる。本業は電気技師。前回23年のWBCで、大谷翔平を三球三振にとったことで話題になった選手である。本人が”The Worker”と名付けたチェンジアップ、すっぽ抜け気味にボールゾーンへ落ちていき大谷はそれを空振りした。年俸100億円以上の選手が、である。彼は世界一、少なくとも日本一有名な電気技師になった。
彼が今回また東京ドームに帰ってきた。監督はこの大会で引退する彼を、日本戦の先発として送り出す。4回2/3を投げ、無失点。被安打6、三振3。当然プロ選手のみの侍ジャパン相手に完璧な結果だった。サトリアがマウンドを降りるとき、東京ドームの観客は立ち上がり長い拍手を送る。今年見たなかでいちばん美しい花道だった。
チェコ代表のなにが私をこんなに惹きつけるのだろうか。おそらく、私たちが長く信じてきた物語を壊してくれるからだ。「よそ見をせず、一つのことに集中すべし」の呪いである。私たちはいつから、「野球代表戦に先発登板する電気技師」や「代表監督を務める神経内科医」を奇妙な存在だと思うようになったのだろう。いつから、一つの仕事に専従することが当たり前だと信じるようになったのだろう。
4月が近い。新しい学校に入る人、社会人になる人、引っ越して新しい土地で生活を始める人がいる。彼らは必ず聞かれる。「大学で何を学びたいですか」「この会社で何をしたいですか」この問いの型はずいぶん昔から変わっていない。
「将来の夢は何ですか」子どもにこの質問をすると、職業名を一つ答えることを期待される。サッカー選手、YouTuber、学校の先生、ケーキ屋さん。回答欄は一つのみ。それがルールである。大学では専攻を一つ選び、会社では配属先を一つ渡され、名刺には肩書きが一つ刷られる。人生の節目のたびに、同じ質問が形を変えて繰り返される。あなたは一つ、どれを選びますかと。
しかしサトリアの人生を考えると、この質問は妙に窮屈だ。電気技師になります、ではないだろう。野球選手になります、でもしっくりこない。どちらも本当だろうが、どちらも彼の全体ではないだろう。
「将来の夢は何ですか」という問いそのものが、人間を一つの職業に圧縮することを求めている。子どもの頃から私たちはそのフレームに慣らされていく。そして大人になっても、その箍はなかなか外れない、強固なものである。
アマチュア(amateur)という言葉はラテン語のamare(愛する)に由来する。愛ゆえに追求する者。そこに、現代の”素人”や”中途半端”という意味は一片もなかった。いつの間にかその言葉は軽い蔑称になり、愛することは”本物ではないこと”に変わってしまった。
だがチェコの選手たちを見ていると、むしろ逆のように思える。複数のことを真剣にやっている人間は、複数の人生を生きているわけではない。ただ一つの態度、『好きなことはすべて真剣にやる』を、複数の場所で発揮しているだけだ。サトリアは電気と野球という二つの人生を生きているのではない。目の前のことに全力を注ぐという一つの生き方を、配電盤の前でもマウンドの上でもやっているのだと思う。
私は経営コンサルタントという肩書きで名刺を刷っている。だがそれは(当然のことだが)私の全体ではない。このニュースレターを書き、テニスのお仕事をなんとか形にしようともがき、庭の野菜を育てている。全部が合わさって私なのだ。
名刺は一枚しか渡せない。だから一つだけ選んで印刷する。あの薄いカードに人格を圧縮するとき、はみ出した部分は社会的には存在しないことにされる。”副業”という言葉がまさにそれだ。本があって副がある。主従を決めろと迫る何かがある。だがチェコの選手たちを見てみよう。副業だと思ってプレイしているようには全く見えない。神経内科医でありチェコ代表監督である人間に、どちらが”主”かと聞くことほど野暮なことはないだろう。
子供の頃、グラウンドでボールを追いかけていた。なぜやるのかと聞かれたら、好きだからと答えた。あのとき私は野球選手でも学生でもなかった。名刺を持つ前、「将来の夢は何ですか」と聞かれる前、そして分類される前の、私そのものだった。そしていま、好きだからコンサルタントの仕事をし、好きなテニスを仕事にしようと日々努力しながら、分類される前の私に戻っていっている。
この春、新しい場所に立つ人たちにも言いたいのは「ここで何がしたいですか?」と聞かれたとき、自然に心に立ち上がる「好きなことがしたい」という感情は、実に真っ当な応えである、ということである。
お便りをお待ちしています。
🥑素敵
虎屋 あんやき:ホワイトデーのお返しは和菓子にしました。白あん・黒ごま・抹茶。おいしそう。 link
✏️読
渡し船が可能にしたシェイクスピアの大活躍 : 1580年代のロンドンでは、テムズ川を渡る水上タクシーの運賃がわずか労働者日当の数%に押さえられていた。この安価な移動手段が、北部の住民たちを、シェイクスピア作品が頻繁に上演されていたテムズ川南岸・グローブ座へと観客を運んでいたのだ。交通のコモディティ化が文化産業の勃興に先行する。Uberがゴーストキッチンを生んだ力学と同型である。更に面白いのは、演劇人気が渡し船の需要を押し上げ、共進化のループが回り始めたことである。インフラと需要の関係を「どちらが先か」で捉える思考そのものが、この記事を読むと揺らぐ。 link
電気大食漢のAIが州全体の電力消費を2割も増やす : Meta社がルイジアナ州に建設中のデータセンター・Hyperionは、州の電力の約2割を消費すると見込まれている。しかしそこで生まれる常用雇用はわずか数百人。AIというと仮想空間・デジタル空間がイメージされるけれど、それを動かしているのは水・電力・土地であり、物理資源を大量消費する営みでもある。各州政府は税優遇で誘致競争を続けるが、構造は囚人のジレンマにある。各州が個別合理的に動いた結果、自然資本・公共資源が着実に民間へと流出していくのだ。90年代のスポーツスタジアム補助金が起こした社会の混乱と同じ構図が個々にもある。 link
トランプ政権下で石炭火力が後退する逆説 : 「石炭を守る!」と叫ぶ大統領の任期中に、石炭火力が最も多く廃止されている皮肉。Carbon Briefの集計では現トランプ政権下で57GW分の石炭火力が退役を迎えており、環境重視を訴えてきた過去の民主党政権期より多い。そして直近、新設電源の96%は再エネであり石炭火力の勢いは増していない。老朽設備の維持費高騰という物理的現実が、政治的スローガンを静かに打ち消している。意図は構造に勝てないし、意志が問題を解決することは稀である、の原則ど真ん中である。 link
在宅勤務がインフレに繋がる:ニールセンの消費者パネルを用いた研究。在宅勤務が増加することで、オンライン購入も合わせて増え、実店舗に行くタイミングは休日から平日にかわる(休日にどかっとものを買うことはむしろ減る)。さらも全体の支出と購入数量が約10%増え、食品と日用品への支出割合が増える一方で健康・美容関連の支出が減る。さて、ここまでは直感に合う。いちばん面白いのはここからで、在宅勤務をすると、なぜか安く買うのが下手になる(価格変化に鈍感になる)のだ。この傾向は既婚世帯で大きく、かつ在宅勤務者が男性の時に最大となる。この論文は、在宅勤務への移行が食料品価格の支払い額を約1%押し上げるだろうという。社会の支出習慣が根底から変わるかもしれない。 link
中国が推進するグレーな医薬品製造販売 : 中国のペプチド直販市場は年間3.28億ドルに上ると推計される。GLP-1受容体作動薬のジェネリック版が、正規承認なしで世界のバイオハッカーに届けられている。これを可能にしているのは三重の裁定構造——規制裁定(中国では合法的に製造可能vs他国では認可ハードルが激高)、コスト裁定(製造コストが桁違いに安い)、文化裁定(自己最適化を求める消費者層が厚く存在)。著作権を無視して配信しまくり音楽好きたちを熱狂させたNapsterの急拡大力学と同型である。著作権が音楽産業の構造を守れなかったように、薬事規制が製薬のビジネスモデルを守りきれるのか。 link
ロシアの軍事力を支える影の暗号経済 : 年間1,000億ドル超を処理するステーブルコイン・A7A5をご存じだろうか。ロシアの石油・ガス取引はこの暗号通貨を決済経路として西側制裁を迂回していると言われている。安全保障や防衛が専門の研究所・RUSIの分析では、暗号資産を使った調達はもはやサブ手段ではなく戦争経済の重要な柱になりつつあり、西側の制裁により銀行や貿易が止まったとしても与えられる影響は限定的であると指摘する。強固な制裁を抗生物質として投与したばかりに、影の暗号通貨ネットワークが耐性菌として登場してしまった。を育てている。制裁レジームの存在自体が迂回インフラの精緻化を促し、制裁をかけるほど回避手段が進化する再帰的ループ。国際金融秩序が前提とする「送金の可視性」という基準線が、いま静かに溶解している。 link
来年、AIの予測力が専門家を凌駕するだろう:AIが未来をどれだけ正確に予測できるか、を計測するベンチマーク・FutureEvalというものがある。世界の出来事を確率で予測するサイト・Metaculusが公開したもので、従来あった推論や数学などの個別能力でAIの力を測るのではなく、世界理解 + 推論 + 不確実性判断の3つを同時に考え、確率分布として予測を返す。Metaculus上にいる超予測者/Superforecasterの力を借り、このベンチマークに基づいてAIを育てていくことで来年には専門家をも上回る人工知能が登場するだろうと予測している。将棋界は強力なAIの登場で様変わりしたわけだけど、未来予測についても同じことが起きるのだろか。 link
“普通の”人間はいつか地球上からいなくなる: 未来の人類の身体は、私たちが考える自然の概念にどこまで当てはまるだろうか。遺伝子編集、マイクロバイオーム最適化、認知エンハンスメント、バイオハックの技術革新は加速しており、30年後にはもう何かしらの形で身体改造していることが当たり前になっているかもしれない。”普通の”人間の基準線を溶かす思考実験を行うこの記事が描くのは、科学がN=1の個別化をに突き進む未来である。臨床試験の前提である標準的な被験者が存在しなくなるとき、医学の方法論そのものが揺らぐだろう。金本位制の崩壊が1ドルの意味を変えたように、身体の個別最適化は健康の意味を変えるだろう。普通の基準線が変わるのではなく、消滅するのだ。 link
📙本
破戒:ポッドキャストのために読んだ、地元、奥信濃は飯山を舞台とした島崎藤村の古典名作。部落出身者たる主人公の心の葛藤よりも、嫉妬MAX・規則第一主義・陰謀大好きな校長と、カネと暴力でなんとか政治家になろうとする高柳にイライラする読書体験。田舎の嫌なところが沁みだしている作品で、時代は変われど、根っこはこのままだよなぁとなるやつです。 link
世界 3月号/4月号:岩波。購読して良かった。3月号のベネズエラ・中南米特集と、4月号のオリンピック報道語りが心に残っています。 link
📻観&聴
guca owl “DIFFICULT“:新しいことをリアルでやろうとするすべての人に向けた心の賛歌です。 link
Keep The Meter Running with Kareem Rahma:コメディアンのカリーム・ラーマがInstagram/Tiktokで展開する企画。舞台はNY。タクシー運転手に「お気に入りの場所まで連れてって」と伝え、道中で人生についてインタビューをする。これぞ大都市、これぞアメリカ、を感じる。 link
David Altrath | Photographer:ドイツの写真家さん。美しい。 link
🧩感
3月で一番笑いました。現代版『臆病な自尊心&尊大な羞恥心』は大阪にあったんですね。>『おば山月記』
テニス、少しずつ上手くなっている感じがします。
20-30代の若手にとって「日中ずっとAIエージェント5体をぶん回しながら仕事する」のはよいマネジメント経験になりそうだ。ChatGPTやGeminiをたたくだけだとただ自分の作業効率化だけど、ターミナル5つ並列でエージェントを動かすのは現場マネージャーの所作が求められる。
ひとりひとりがなんとか持ち場を守り、一部の人は150%の力で仕事をしてくれているから日本はギリギリのところで耐えている。東南アジア経済は危機的状況。日韓の化学系産業はどこもしんどいはず。向こう3~6ヶ月の不透明感よ。備蓄放出の理由としてガソリン高騰抑制が主軸として語られるのは残念、はほんとそう思う。年末に「なぜあのとき出してもうたんや…」とならないと良いのだけれど。>『貿易関係に勤めてるから今の世界の様子をざっくり書くよ』『みずほリポート 原油高だけではない中東情勢緊迫化の試練』
🍵関心
イラン国内は当然大荒れ、ホルムズ海峡も不穏。20年後、今日を振り返ったときに中東で起きていることはどう解釈されるんだろうか。>『イラン2500年の軍事史と苦難』
💼仕事
AIの力を借りて、自社Webを大改修し、3つのWebアプリをつくって、書籍企画書+原稿たたき台を2冊文作り、半年後〆切の仕事を8割方つくり終えました。欲しいものができると人間はがんばるものですね(「プログラミング言語を勉強するならつくりたいものの構想づくりからやるといいよ」「英語を上手くなるためには現地パートナーをつくるのが一番」の例)
小規模被エンジニアリング組織のClaudeCodeぶん回し術、どこにでもお話しにいきます。
お便りをお待ちしています。




冒頭の文章、とても良かったです。自然に心に立ち上がる「好きなことがしたい」の感情、大事にしたいです。