本日の内省:その人はいつもその人なのか。私はいつも私なのか。
キャラではないのだけれど、年に数回、恋愛相談をされることがある。
以前、プロジェクトの打ち上げでご一緒した女性から「ちょっと男目線でのコメントが欲しいんだけど・・・」と、赤裸々なお話しを頂いた。2年ほど付き合っている男がいて、身長も高く顔はシュッとしていて好みなのだけれど、粘着質で面倒くさいのだという。細かい内容はもう忘れてしまったが(人の恋バナは即座に忘れるのがマナーだし)、いわゆるストーカー化する男性ってこんな感じなのかなぁと思いながら酒を飲んでいた。
もう少し話を聞いていると、どうもその男は社会的なお立場がある方らしい。名前でググると顔出しでインタビューに応えている。爽やか笑顔のこの方が粘着質ですって?「君に会えないなら生きている価値なんてない」ってLINEしてくるんですか?
SNSアカウントもあるらしい。仕事で成果を出すとはどういうことか。組織で活躍する人には何が必要なのか。事業をどう考えるべきか。そんなことを、明快なお言葉と「一方で」「しかしだからこそ」などロジカル接続詞を駆使しながら語っていらっしゃる。言葉は明快で、断定的で、わたし仕事に一生懸命です!を社会にアピールしている。この方が、仕事終わりに新幹線に乗りあなたの家の前で待ち伏せをしていた人?すごいやんけ。
SNSでは誰もが自らを演出をしている。
裏垢という言葉もあるくらいだから、ネット上の人格と現実の人格は違うのは当たり前なのだけど、ここまでギャップをつくれるものなのか。
ホンモノの彼はどこにあるのだろうか。
SNSに長文仕事術を語る彼は偽物で、恋人に執着している彼が本物なのだろうか。あるいはその逆なのだろうか。簡単にはわからない。仕事に真っ直ぐな彼も彼らしく、恋人に縋る彼もまた彼らしい存在なのだろう。そして彼の人格はこの2つを超えて、もっとたくさん存在するのだろう。人にはたくさんの顔がある。裏などない。全てが表の顔である。
ココ・シャネルという人がいる。ファッションデザイナーであり、CHANEL/シャネルの創業者だ。

シャネルの典型的なイメージは女性の解放者である。それまで女性の身体を締めつけていた服から女性を解放し、ジャージーのような動きやすい素材を積極的に取り入れ、女性服のあり方そのものを変えた。窮屈な慣習に従うのではなく、女性が動きやすく、働きやすく、生活しやすい服をつくり、彼女たちを家から社会へと解き放ったのだ。
同時に彼女は、ナチス・ドイツ軍情報部アプヴェーアの記録に、エージェント番号・F-7124、コードネーム”ウェストミンスター”として登場する。第二次世界大戦中、独外交官・諜報員であった男と不倫関係にあり、独当局に協力的な姿勢を取っていたことがわかっている。そして香水事業のパートナーだったユダヤ系のヴェルテメール家を、ナチスドイツが制定したアーリア人優遇法を根拠に排除しようとした。訴追の可能性がうまれた大戦終了後、彼女はスイスに亡命することで処罰を逃れている。
新たなファッションを創造し、女性を古い社会規範から解放した人であり、
同時に、ナチスに親和的で、人種差別的制度を自らの利益のために利用した人。
本当のココ・シャネルはどこに居るんだろうか。
たぶん、この問い自体が間違っている。どちらもココ・シャネルなのだと思う。
彼女は、とにかく使えるものを使う人だった。新しい素材が使えるなら使う。社会の慣習が邪魔なら壊す。自分を好きになった相手の立場や財力も惜しみなく使う。自身についた社会的イメージも使う。組織権力も使う。法律や制度が自分に有利なら、当然それも使う。
その性質が女性服に向かえば、既存の慣習を破壊する革新者になる。
同じ性質がナチス占領下の制度に向かえば、権力を利用して競争相手を排除しようとする人間になる。
一見するとまったく違う二つの顔が、実は同じ性質から生まれていたのかもしれない。
就職活動でよく聞かれる「あなたの強みは?弱みは?」という質問に対しては、同じ要素を両側面で応えるのが王道回答らしい。「強みは粘り強いことです。弱みは、こだわり過ぎてしまうことがあることです」「強みは目標達成能力が高いこと、弱みは、一直線で成果に向かうため周囲と軋轢が生まれてしまうことがあります」のように。
ココ・シャネルについても同じことがいえる。
人物を評価するとき、私たちはその人が持っている性質そのものを評価しているつもりでいる。しかし実際に私たちが評価しているのは、性質によって生まれた成果であり現実現象である。同じ頑固さでも、難病の研究を30年続ければ信念と呼ばれ、別れた恋人に半年も連絡し続ければ恐怖となる。性質そのものよりも、対象と文脈が意味を決めている。
評価する側も一定ではない。恋人から見た人物像と、部下から見た人物像は違う。若いころの友人と、いまの仕事仲間でも違う。本人が死んだあと、50年、100年と時間が経てば、その社会が人物に当てる光そのものも変わっていく。
ココ・シャネルは変わらない。既に亡くなっている存在で、事実は固定されている。それでも彼女の人物像は変わり続けるだろう。見る人が変わり、時代が変わり、よって価値観も変わり、何を重要だと考えるかが変わるからだ。
これは歴史上の人物だけの話ではない。
私自身も、ときどき人からどう思われているのかを考える。感じのいい人だと思っている人もいるだろうし、嫌なやつだと思っている人もいるだろう。賢いと思っている人もいれば、屁理屈ばかり言っていると思っている人もいるかもしれない。おそらく全部正しい。
私も誰かに対して、『この人はこういう人だ』という判断を簡単に下してしまっている。改めて思うのは、その判断は人物そのものではなく、その人と私との関係の中で、たまたまこちらを向いていた一枚の顔にすぎない。他の人から「Aさんってどんな人?」と聞かれたときに、私が口ごもるのは、そういう理解が背景にあるからである。
だからといって、誰についても判断してはいけない、という話ではない。面倒くさい人からは離れればいいし、信用できない人を信用する必要もない。危険な人には近づかない方がいい。ただ、「私にはこう見えた」と「この人はこういう人間である」のあいだには、思っているより大きな距離がある、ということである。
人についての評価は永久保存版になりえない。みる人が変われば、更に時代が変われば、簡単に揺らいでいくものである。人物評価は常に暫定版である。
ココ・シャネル百面相。シャネルだけではない。わたしたちみな百面相なのだ。
お便りをお待ちしています。


